葬儀にまつわる迷信について


   迷信とは、迷った信心ということであります。決して真実の信心ではありません。迷信と言われておるものには、何故そうなるのか、という理由が一つもありません。だから迷信と言うのでしょうが。迷信は何故か宗教にまつわるものが大変多いようであります。特にお葬式に関わる迷信あるいは俗信が数多くありますので、そのことについて少しお話しをいたします。

 まず、人が亡くなられますとお葬式を出す訳でありますが、そのお葬式の日取りですが、「今日は友引やからやめとこ」というふうに友引の日を避けて行なう事がしばしばあります。友を引かれるとこまるという事でしょう。カレンダーにも友引とか仏滅とか、何か訳のわからない事がのっておりますが、これは昔の中国のゲームというか、占いというか、お遊びみたいなものやったらしいです。友引の日にお葬式をしたからといって、必ず後で続いて誰かがなくなる というような事は決してありません。
お葬式の日取りは、友引であろうが仏滅であろうが一切関係ありません。よくこの辺でされておりますが、友引の日にお葬式をする場合お棺の中にお人形を入れて、それでもって先に友を引かしておこうという訳ですが、こういった事も全くする必要はありません。

 最近はお葬式といってもだんだんと派手になってきまして、綺麗に飾りつけた葬儀壇というものを造って、そこで行ないます。その葬儀壇のところに、大きなお茶碗にゴハンを山盛りに盛りそこに何故かオハシがポンと突き刺してあります。これは「死んだからもうゴハンの喰い上げだ」という事であります。お仏飯としてゴハンはお供えしますが、オハシを刺すのはいりません。お茶碗に関わる事がもう一つあります。葬儀式が終ってる出棺の時、玄関の所で出棺と同時にお茶碗を割ることです。そのお茶碗も故人が生前中使っていたものであります。この意味は「万が一この娑婆へ帰ってきてもゴハンを食べるお茶碗ありまへんで、ここで先に割っときまっさかいに、もう帰ってきてもうたらあきまへんで、迷わず成仏して下さいな」という事であります。
これも全く俗信的な事でありまして、する必要は全然ありません。
 葬儀壇というのは、お花などで綺麗に飾り、浄土真宗では必ず正面の一番上に「南無阿弥陀仏」の六字のお名号をかけます。だから葬儀壇というのは、一つの大きなお仏壇だと思っていただければ結構かと思います。

 話は少し余談になりますが、我々はよく法事とかお通夜にお参りをさせて頂いて気になる事がございます。それは、お参りに来られた方がよくされますが、このリンをたたいておまいりをする人がしばしばあります。このリンというのはお勤めにつきもののものでありまして、お勤めの始まりの合図、中のくぎりの合図、最後のしめの合図、こういった時にたたくものであります。だから「お勤めに付きもの」でありまして、お勤めをしない時はリンはたたかない というのが作法であります。
 それともう一つ、お焼香の作法ですが、これも皆さんまちまちです。宗旨によって違うと思いますが真宗の作法では
一回だけ香をつまんで、くべるだけでありまして、二回も三回もくべる必要はありません。また額で押し頂く必要もありません。よく葬儀の終りの方でこういうアナウンスがあります。「時間の都合上、一回焼香でお願いいたします」真宗では、時間があろうとなかろうと焼香は一回と決っておりますので、真宗門徒の皆さん方は自信をもってこのようにされたら結構であります。

 次に葬儀式が全部終りまして、今度は火葬場へ行かれる訳ですが、火葬場から帰ってくると玄関のところに塩が盛ってありまして、その塩を踏んで家に入る、あるいはその塩を我身にふりかけて家に帰る というような経験を皆さん方も一度はされていると思いますが、これも要らない事であります。何故このような事をするのかといいましたら、死人を火葬場まで見送りに行き、その為に我身が汚れた だから塩で我身を清めて、きれいにしてから家に帰るという事でしょう。考えてみれば、なくなられた人に対して非常に失礼な行為であります。仏教的に言えば、死という事は煩悩が全て消滅するという事で、我々生きておる煩悩だらけの人間よりも、亡くなられた方の方がよっぽどきれいな清浄な身体であります。お葬式に行けば必ずといっていいほど、この塩が入っておりますが、
たとえ塩が入っておりましても、それを使う必要は全くありません、というより使えばかえって、亡くなられた人に失礼ではないでしょうか。

 まる2日間の葬儀式が終わりましたら、すぐに満中陰の法要がやって来る訳ですが、それが「四十九日が三月(みつき)にまたがってはいけない」とよく言います。「始終苦が身につく」というゴロ合わせですが、これもバカげた話であります。月の十五日より後半になくなられたら必ず四十九日は三月(みつき)にまたがります。あたりまえの事です。これは二月(ふたつき)であろうが三月(みつき)であろうが
満中陰の四十九日に法事を勤めるというのが正しいあり方です。勿論四十九日の当日が当家の都合がどうしてもつかない、あるいはお寺の都合がその日はどうしてもつかない、となれば三十五日に勤めても結構ですが、ただ三月にかかるから三十五日にするというのはまちがったあり方であります。

 満中陰が終わりましたら、すぐに一周忌、三回忌と年忌の法要がくる訳でありますが、その法事の日取りですが、よく言われますのが、命日より早く勤めるのはいいが、命日より遅れたらだめだ という事です。これは何故そのような事が言われるのかと言いますと、昔の方が、自分の家の御先祖の命日を自分の下の者(子や孫)に覚えさしておく為に「遅れたらあかんのやぞ、遅れたらあかんのやぞ」と言う事をしきりに言っておりました。そういう事を言う事によって、御先祖の命日を覚えさせておこう、という一つの手段として使っておったものであります。ところが今はそれが迷信的なものに変わりまして、遅れて勤めると「御先祖が怒ってはるのとちがうか、又祟りでも来るのとちがうか」等と色々な事を思われて皆早め早めに勤められるケースが非常に多い訳ですが、これは
命日の後先(あとさき)は一切関係ありません。
 法事と申しますのは、亡くなられた方の命日というものを一つの御縁としまして、我々生きておる人間一人一人が仏縁に触れさせて頂いて仏法を聞かせて頂く というのが法事の一番大切な意義であります。となれば命日の後でも先でも、いっこうにさしつかえはありません。

 まあ、色々と申してきましたが、他にもまだまだ迷信的なものはいっぱいございます。ところが浄土真宗には昔から「門徒もの知らず」という言葉があります。これは「門徒もの知らず、ものこだわらず」と続きます。浄土真宗の門徒はこういう意味のない、理由のない迷信的なもの、あるいは俗信的なものには一切こだわらないという事であります。「もの知らず」といいましても、何も知らないという意味ではありません。知っておっても、そういう意味のないものにはこだわらない、こだわらないというのが浄土真宗の門徒としての一つのあり方なんだ という事を「門徒もの知らず」という言葉でもって言い表しているのであります。
 迷信的なものには、かなり根強いものがありまして私がいくらここで申し上げましても「そうでっか御院さんよう解りました、そんならこれからそういうふうにやりましょ」と言ってくれる人は数少ない。まあそれほど根強いのでありまして、なかなか無くならないものでありますが、本当に意味のない、理由のないものでありますので、皆さん方もあまり迷信的、俗信的なものには、こだわられませんように、「門徒もの知らず」でいて下さいます様に、お願いを申し上げます。