本願寺第8代 御門主
蓮如上人木像
(山科別院)
大阪城内にある蓮如上人顕彰碑
蓮如上人と大阪

「大阪」という地名の起源は、明応5年(1496)に蓮如上人がここに坊舎を建立したことから始まる。『御文章』第四帖において、「そもそも当国(摂津国)東成郡生玉庄の内大坂という在所」とあるのが初めてであり、この蓮如上人の『御文章』から「大坂」という地名が生まれ、さらに明治以降「大阪」と字が変わつたことはよく知られている。
事実、蓮如上人によって大坂の地に坊舎が建立され、27年後の天文2年(1533)に山科より本願寺がここに移ることにより、大坂は大いに発展していくこととなる。本願寺が大坂(石山)に移ってくると間もなく本願寺を中心とした寺内町が形成される。大坂の寺内は六つに分かれ、多くのひとびとが集住していたようである。「寺内町」とは、言葉通り寺院の境内にできた「町」であり、そこには商工業に従事するひとびとが多く住んでいた。いらい大坂では、本願寺を中心として、約50年間に及び一大都市を形成していた。
元亀元年(1570)、織田信長は天下統一を目指すなかで、大坂の本願寺を攻撃する。その後、天正8年(1580)に顕如上人が大坂の地を退出するまでの11年間に及び信長と争った。いわゆる石山戦争である。
顕如上人が退出したのち本願寺自体は焼亡するが、大坂の寺内がどのようになったかは定かではない。本願寺が退出した跡の大坂の地に豊臣秀吉は城を築き、一大都市を形成させる。この時秀吉はおそらく焼かれなかった本願寺の寺内町を基礎として城下町を築いたものと考えられ、実質的な大坂の町の基礎は本願寺の寺内町にあったものと思われる。
秀吉は、天正12年(1584)に大坂城を完成させ、続いて天下統一を果たすと、大坂を経済の中心とした流通システムを築き上げていく。秀吉の時代に築き上げられた大坂の経済的役割はその後の江戸時代にも継承された。このため江戸時代を通じて大坂は全国の物資の集積地として日本経済の中心として発展していく。
この大坂の商業のさらに中心は「船場」にある。 船場には、慶長3年(1598)に秀吉の大坂城工事に伴い北御堂(津村別院)と南御堂(難波別院)が建立され、この両御堂の前に道が整備された。この道がこの時開発された新市街地の西端にあたり、これを両御堂の前にあることから「御堂筋」と称していらい現在まで大阪のひとびとの馴染みとなっている。
大坂に商業が発展すると全国各地から商人が集まってきた。なかでも商人の代表的な存在として「近江商人」がいた。江戸時代を通じて、近江商人は全国的に活躍するが特に商業の中心である大坂でもこれらの近江商人が大活躍をした。
今でも船場は繊維の町として知られるように、江戸時代いらい呉服類を扱っていたひとびとが多くいた。この呉服類を扱う人たちの多くは近江商人であった。大坂商人の初代は、それぞれの出身地の習慣を守っていたようで、船場を中心に商売を始めた。近江商人も例外ではなかった。近江の地は、蓮如上人いらい浄土真宗の盛んな地のひとつとして知られる。このような土壌に生まれ育った近江出身の大坂商人たちは、故郷の浄土真宗の感覚を身につけていた。このため、大坂においても、東西本願寺の御坊の近くに集まり、商業に従事することとなったようである。南北御堂の前に広がる船場において商業を生業とするひとびとは、大坂の中でもひときわ壮大な屋根を誇る御堂の見えるところに家を持ち、そこで商いをすることを理想とし、そこには、出身地である近江の土壌を継承した人が多く、次第に御堂の前の生活が通常の生活へとなっていった。このため、今でも船場では多くの商業に従事するひとびとがおり、御堂の鐘の音とともに目覚め、一日の生活の始まりとしているという。
また浄土真宗が大坂の、特に船場のひとびとに浸透しているものとして「相愛学園」がある。現在の相愛学園は、明治21年(1888)に「相愛女学校」として津村別院の境内において創立されたものであり、ここに女子学校が創設された目的の一つには、別院の前にある船場の子女の教養を育成することであったともいわれており、このことをとってみても、大坂のひとびとのあいだでは、浄土真宗が生活に深く浸透し、また人生の指針として息づいていたのである。
大坂の地は蓮如上人によって開かれたことを契機として、その後も長い歴史のなかで、浄土真宗の教えが根づき、大坂のひとびとは、浄土真宗を心のよりどころとして歩んできたものといえるであろう。