東 庵 碑
園井東庵碑(赤ひげ先生)

 園井東庵医師は筑後国上書郡福島町明永寺境内に居住していたが、明和(1764〜)・安永(1772〜)年間に摂津豊嶋郡麻田村(麻田城青木氏の御典医となる)に来たり。その間、大阪周辺の貧民街を廻り往診す。天明6年(1786)12月10日寂。
法名 帰来院酔月義齋居士・俗名 東庵、葬儀は看景寺が導師となり、正安寺・萬行寺住職が脇導師となる。墓は柴原の安楽寺にあり、北刀根山墓地にも分骨し、村の者により参詣されている。昭和10年5月30日 百五十回忌の時に当境内地内に記念碑を建立し、以後北刀根山村の主催で年回法要が勤められている。

≪エピソード≫

  江戸時代後期の明和(1764〜)〜安永(1772〜)年間、石橋(池田)、蛍池(豊中)、桜井(箕面)を領域とする麻田藩の陣屋が蛍池(現在の蛍池公民館あたり)にあった。藩主は青木氏、九州出身で一万石のお殿様である。
  同郷のよしみということもあって、この陣屋に園井東庵が迎えられたのは、彼が40歳を過ぎた頃。九州久留米を出て、京都で医術を修めたそのウデは確かなものだった。身分は御典医、家も報酬も与えられ、生活にはこと欠かないのだが、この東庵先生、淡々とした性格で上にへつらうのが大嫌い。生まれつき無欲で、貧しい患者はただで診てやり、かえって米や薪を与えてやるほどで、自分はいつもボロボロの衣服で平気な顔をして暮らし、村人達の命を救っては生きる喜びとしていた。領主から賜った紋入りの衣服を路傍の病気の人に与えて問題になったこともありましたが、村人達からは「東庵先生、東庵先生!」としたわれていました。
  日頃、城勤めにいや気がさしていた東庵は、ある時、仮病をつかって出仕をやめてしまいました。そのうち領主の見舞いがやって来ますと、弟子に死亡届を差し出させ、自分は棺桶を用意して、その中で息をころして死んだふりをしていました。
  いっぽう、東庵の死亡を信じた村人達は嘆き悲しみ、棺桶を埋葬しようとしたところ、いきなり棺桶から飛び出した東庵は「我が命、未だ尽きず。閻魔大王は我を放てり。」と大声をあげ駆け出し、そのまま何もかも捨てて近くの岡村(岡町)の知人の家に身を隠しました。かねて東庵の行いに感心していた知人は、彼のために家を新築してやり、喜んだ東庵はさっそくここを根城に、また貧民相手の無料診療を開始したということです。
  貧民専門の東庵が、めずらしく大金持ちの六右衛門の重病を治してやったことがあります。六右衛門は謝礼に一両のお金を届けさせましたが、東庵は「六右衛門の命が一両で買えると思うのか。そんな安い命があるなら、俺も買いたいから持ってこい。」とどなりつけ金包みをつっかえしました。
  驚いた六右衛門は、東庵を訪れてわびを言い、どうして恩に報いたらよいかを尋ねました。すると東庵は「薬屋、米屋にたまっているわしの借金を全部払ってくれ。」と命じました。六右衛門がさっそく実行しますと、東庵は「お前は命が助かっただけでなく、二十年も寿命が延びるだろう。お前が払ってくれた借金は、何十人もの貧しい者たちにほどこした薬や米の代金だったのだから。ありがとうよくやってくれた。」と礼を言ったので、六右衛門も非常に喜んだということです。
  この話を聞いたお殿様は再び東庵を召し、報酬を与えようとしたが、その使いが来た時、自宅の垣根を越えてまた脱走、今度は隣村の刀根山に身を隠した。
刀根山に移住した東庵は、また無料診療を続け、天明六年(1786)十二月十日、六十九歳、この村でその生涯の幕を閉じた。妻子もなく静かな大往生だったが、恩恵をこうむった村人達は、手厚く彼を葬った。
  ひょうひょうとして「医は仁術にある」ことを実行し、転々とその身を隠した東庵先生。記念碑には「隠医東庵翁」と刻まれている。

資料提供 : 秦 博文(安楽寺住職)氏