◆浄土真宗は出家という形を取らず、在家、つまり世俗の中で阿弥陀如来の救いを受けとめていく教え。(「世の中安穏なれ」大谷光真師)

◆阿弥陀仏とは、「仏」は目覚めた、悟りを開いたという自覚の面を表し、阿弥陀如来とは、「如来」は真如からやって来たという救済の働きの面を表す。(「世の中安穏なれ」大谷光真師)

◆「念仏を称えれば救われる」というより「念仏を称える身になって救われる」のである。(「世の中安穏なれ」大谷光真師)

◆南無阿弥陀仏とは、私の救われていく一切の功徳の成就していることを、私に知らせて下さる言葉である。(「親鸞は何を説いたか」桐渓順忍師)

◆念仏往生の理由について、南無阿弥陀仏という六字は「お前の往生が決定しているからまかせなさい」という如来の仰せであるから、おまかせするところに往生は決定する。称名は、そのおまかせすることを如来に申し上げることである。如来は「お前を仏にするぞ」と仰せになり、私は「おまかせします」と申しているのであるから、念仏したらどうして往生するのかという疑問は起こらないはずである。「彼の仏願に順ずるが故に」、仏様のお約束だから。(「親鸞は何を説いたか」桐渓順忍師)

◆南無阿弥陀仏を如来様の側から味わう時、如来招喚の勅命、お喚び声、聞く念仏と仰ぎ、凡夫の側から味わう時、御恩報謝の念仏といただくのである。(「御文章」宇野行信師)

◆他力の易行道とはロープウェーで山頂へ登るようなもの。幼児でも赤ん坊でもロープウェーの道だけは、乗せたその時からすでに、周りの景色を見ていようが、眠り込んでいようが、そのことに関係なしに、一人も漏らさず確実に、しかも敏速に、頂上に到り着くことに決定しており、そのことが約束されている。この道だけは学問の有無、男女、老少、善悪を問わない仏道である。(「御文章」宇野行信師)

◆煩悩と本能について、共に欲求を満たしたいという点では同じであるが、例えば単に何はともあれ空腹を満たしさえすればよいというのが本能。しかし煩悩が働くと同じ満足するのにも、少しでも美味しい物を食べてということになる。煩悩が働くと、自分に都合の良いように満足したいという自己中心的な立場が常についてまわる。(「御文章」宇野行信師)

◆「かたじけない」とは、「お恥ずかしい」「有難い」「もったいない」という三義を持っている言葉。(「御文章」宇野行信師)

◆聴聞の「聴」は聴診器と使われるように、聴き耳を立てて自分から努力して聴こうとする姿勢が中心。「聞」は聞きたくなくても自然に向こうから聞こえてくるという意味。(「御文章」宇野行信師)

◆恩徳讃は御恩報謝の心。報ずべし、謝すべしの「べし」とは、決定の時は当然、まことにその通りという意味。だから如来様の働きに出遇うと、自然にそうせずにはおれなくなるということ。御恩を喜ぶ心まで如来様から与えられていたのである。(「御文章」宇野行信師)

◆幽霊の三つの特徴(「御文章」宇野行信師)
@髪の毛が後ろに長く伸びている A両手が前に垂れている B足がない
髪の毛が後ろに長いのは、後ろ髪を引かれるという言葉があるように過ぎ去った事に思いを引かれ後悔している心を表す。両手が前に垂れているのは、将来の事にあれこれ思い悩んで、無駄な心配をして、心を奪われている事を意味する。足がないのは、過ぎ去った事に未練を残して、いつまでも振り切れず、将来の事が気がかりで我身の現実が見えない状況を表現している。
とりもなおさず我々凡夫の姿である。

◆永代経法要とは、永き時代(とき)を超えて御先祖から伝えられてきた経(教え)を今この私がいただく尊い御法縁の要(かなめ)。(中井賢隆師)

◆妙好人(「親鸞聖人の信心と念仏」梯実圓師)
「観経疏・散善義」−分陀利華(白蓮華)を註釈−
もし念仏する者は、すなわちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。
分陀利華(白蓮華)は、泥の中に咲きながら、泥に染まらず、かえって泥沼を美しく荘厳している。

◆慈悲(「親鸞聖人の信心と念仏」梯実圓師)
慈=マイトリー 悲=カルナ
マイトリーというのは、純粋な友愛を表す。純粋というのは、お返しを求めないこと。
悲というのは、悲しいという字ですが、実は人の悲しみを共に悲しみ、人の痛みを共に痛む心。これがカルナの意味です。
慈悲とは、人の痛みを共に痛み、人の悲しみが我がことのように響く心を持ち、人の安らかな幸せを純粋に願っていく心を慈悲という。

◆他力(「親鸞聖人の信心と念仏」梯実圓師)
他力と言えば、自分は何もしないことのように誤解する人が多いようですが、何もしない人に他力が分かる訳はありません。力の限り仏法を聴聞し、念仏している上で、それを自分の手柄と考えて驕慢になっていることを自力といい、それは全て如来様のおはからいであると受け取って感謝し、謙虚に励んでいることを他力というのです。
「自分のはからいをまじえないこと(義なき)を他力の正しい意味とする(義とす)」

◆救う・済う・拯う(「親鸞思想入門」)
救−悪事を働く危険な状態から逃れさせる
済−生死の苦海を渡して涅槃の岸に向わしめる
拯−迷妄に溺れ陥っている者を悟りの彼岸に到達せしめる

◆宗教つり革論(「私の歩んだ仏の道」浅田正博師)
宗教は電車の「つり革」に似ていると言われます。電車が一定の方向に向かって、しかも一定の速度で走行している時には、電車の中で立っていたとしても「つり革」は必要ありません。しかしその電車が急にブレーキをかけたり、急カーブを切った時には、思わず「つり革」をつかみます。
自分の人生が順調に運んでいる時は、宗教を必要としない人が多いです。しかしその人生に大きな障害が立ちはだかった時、要するに人生に急ブレーキがかかった時、あるいは急カーブを切った時には、思わず「宗教」に救いを求めようとします。
その時には、どの宗教に救いを求めれば良いかなど考える余裕はありません。自分の手の届く範囲において宗教の「つり革」をつかむのです。まさに「藁(ワラ)をもつかむ思い」なのでしょう。しかし問題は、その「つり革」の強度です。弱い「つり革」であれば、それを持ったと同時に「つり革」もろとも床にたたきつけられます。自分を十分に支えることのできる「つり革」でなければ「つり革」としての意味がありません。
「宗教」も同じで、真実の教えでなければ、自分を支え尽くすことができないのです。宗教に無関心な人は、人生が順調に進んでいる時だからでしょう。しかし人生には必ず急ブレーキがあり、急カーブもあります。しかもその時は、いつやって来るかわかりません。突然やって来た時に慌てて「つり革」を探しても間に合いません。普段から自分をしっかりと支えてくれる「宗教的つり革」を用意しておく必要があります。