曇鸞大師 −(476〜542)

雁門の生まれ(現在の山西省代県)。神鸞とも尊称された。四論や『涅槃経』の仏性義に通じ、『大集経』の註釈を志したが、健康を害して果たさず、その後不老長生の法を求めて江南に道士陶弘景を訪ね、仙経を授 かった。帰途洛陽で菩提流支に会い、浄教を授けられ仙経を焼き捨てて浄土教に帰したという。東魏の皇帝の尊崇をうけ、并州(現在の山西省太原)の大巌寺に 住し、後、石壁山(現在の山西省交城北)の玄中寺に入った。その後、汾州の平 遙(現在の山西省汾陽)にあった山寺に移り、ここで入寂した。
天親菩薩の『浄土論』を註釈して『往生論註』二巻(『浄土論註』『論註』ともいう)を著し、五念門の実践を説き、浄土教の教学と実践を確立した。著書は他に『讃阿弥陀仏 偈』一巻などがある。真宗七高僧の第三祖。(「浄土真宗聖典」)

 中国北部、五台山に近い雁門の生まれ。北魏の五台山は、当時の仏教研究の中心地であり、曇鸞はこの山で仏道の修行に励んだ。その内に『大集経』の註釈を思い立ったが、事業なかばで病気になった。そこで、「このようなことでは困る。仏法の経論釈を学び尽くすのは長寿でなけれ ば覚束ない。なんとかして長生不死の法を身につけよう。」と考えた。
 五十歳ごろ、南方の梁の国まではるばる旅をした曇鸞は、梁の武帝(蕭王)の敬いを受け、首尾よく仙術の道士に会い、念願の仙術奥義の書の伝授を受けた 。
 「これで長生きをして、仏教研究が続けられる。」と、喜び勇んで帰国の途についた曇鸞は、洛陽の都に立ち寄った。
 ちょうどその頃、洛陽に菩提流支(ボーディ・ルチ)三蔵がおられた。彼は北インドからシルクロードを通って多くの経典類を携え北魏へ来て、中国語訳につとめていた僧である。(ちなみに「三蔵」とは、仏教の経と律(仏教教団の生活規則)と論の三つをあわせたもので、その三蔵に通じた学僧を「三蔵法師」と いう。)
 曇鸞が得意気に仙術の書を見せると、三蔵は大地にパッと唾を吐き捨てて、「少々長生きして何になる。すみやかに生死解脱の真の長生不死の法を求めよ。 限りない生命を得る、真の不死の書はこれだ!」と言い放って、『観無量寿経』(もしくは天親菩薩の『浄土論』)を示したのである。
 曇鸞は悔悟し、仙経を焼き捨てて浄土の教えに帰し、念仏三昧の生活に入った。その徳の高さは四方に広まり、梁王は北へ向って「鸞菩薩」と拝し、魏王は「神鸞」と敬ったという。

『浄土論註』『讃阿弥陀仏偈』の二著を、浄土真宗の聖教とする。(「解説  礼拝聖典」)