善導大師 −(623〜681)

中国浄土教の大成者。光明寺和尚・宗家大師・終南大師 等と呼ばれる。臨Q(現在の山東省臨Q)の出身、あるいは泗州(現在の江蘇省 宿遷)の生まれともいう。諸方を遍歴し西方浄土変相図をみて浄土教に帰し、のち并州の玄中寺に道綽禅師を訪ねてその門に投じた。師の寂後、長安に出て終南山悟真寺、光明寺等に在って念仏弘通につとめられた。当時、『観経』にもとづく浄土教の研究・講説がさかんであったが、善導大師は浄影寺慧遠等の聖道諸師の説を批判して『観経疏』四巻を著し、曇鸞大師・道綽禅師の伝統をうけ、凡夫 入報の宗旨を明らかにされた。
著書は他に『法事讃』二巻『観念法門』一巻『往 生礼讃』一巻『般舟讃』一巻がある。真宗七高僧の第五祖。(「浄土真宗聖典」 )

 善導大師は幼くして出家、三論宗に入り、『維摩経』や、『法華経』を学んだ。
 しかし、末法の世に生まれ、修業の及ばぬ身であることを思い、末法にかなった道を求めて、数々の経論をひもといていった。その中で『仏説観無量寿経』に心をひかれ、一心不乱の修法を重ねたが根本の信念が得られない。各地に名僧を訪ね、道を求めることになった。
 二十九歳の時、玄中寺の道綽禅師に会うことができた。禅師は八十歳。しかし念仏の声は朗々として善導の心を打った。五年の師弟の生活のうちに、善導の念仏往生の信念は確固たるものとなった。
 当時は唐の初期、中国仏教の一大全盛期であり、各地に有名な高僧の輩出した時代であった。
 善導は唐の都長安に入り、光明寺に住んで、広く大衆に門戸を開き、念仏をもっぱらに勧めた。群参する者限りなく、「長安城中、念仏に満つ」といわれるほどであった。
 『観経疏』を著し、これまでの『仏説観無量寿経』についての解釈を改め、念仏往生こそ末法悪世の人々のための仏の本意であることを明らかにした。これを世に善導流の念仏という。

『観経疏(四帖疏)』『浄土法事讃』『観念法門』『往生礼讃』『般舟讃』の 五部の著を浄土真宗の聖教とする。(「解説 礼拝聖典」)