源信和尚 −(942〜1017)

比叡山横川の恵心院に住したので恵心僧都ともいう。 大和国(現在の奈良県)当麻の生まれ。父は卜部正親、母は清原氏。比叡山に登り良源に師事して、天台教学を究めたが、名利を嫌い横川に隠棲された。寛和元年(985)四十四歳の時に『往生要集』三巻を著し、末代の凡夫のために穢土を厭離して阿弥陀仏の浄土を欣求すべきことを勧められた。著書は七十余部百五十巻といわれるが、浄土教関係では『往生要集』『観心略要集』『阿弥陀経略記 』等がある。浄土真宗七高僧の第六祖。(『浄土真宗聖典』)

平安時代中頃、大和国葛城に生まれ、幼名を千菊丸といった。
九歳の頃、近くの小川で鉢を洗う旅の僧を見て、次の問答をしたという。
「お坊様、向こうの川の方がきれいですよ」
「すべてのものは浄穢不二じゃ。きれいきたないは凡夫の心の迷いじゃ。このままでよい、よい。」
「それじゃ、どうして鉢を洗うの?」
何日かして比叡山から使いが来て、この利発な千菊丸の出家の話が決った。先の旅の僧のすすめであった。

比叡山に登り、良源僧正について勉学、十三歳にして髪をおろし出家となり、 師から源信の名が与えられた。
源信の才智はまわりの者の目を見張らせ、十五歳にして時の帝村上天皇の御前で特別に『称讃浄土経』を講じる名誉を得た。天皇はじめ公卿殿上人、感嘆しない者はなく、数々の褒美の品と、僧都の位とが授けられた。
源信は、早速この喜びを大和に一人暮す母に知らせようと、使いの者に褒美の品を持たせた。しかし、褒美の品は返されてき、和歌が添えてあった。

「『後の世を渡す橋とぞ思ひしに
      世渡る僧となるぞ悲しき』
 まことの求道者となり給へ。」

母の厳しい訓戒ににうたれた源信は、精進を重ね、比叡山横川の恵心院に住んで念仏三昧の日を送った。三十数年後、母は念仏を勧める源信の膝を枕に、安らかな往生をとげたという 。

『往生要集』を浄土真宗の聖教とする。(『解説 礼拝聖典』)